二人の「きず」な

似たような場所に傷を持つ私たちは、「絆」という言葉をあまり好まない。響きが「きず」を想起させるから、という理由だけではなく、それが往々にして人を縛り、抑圧するものだとよく知っているからだ。

私がヒステリックに自分を見失うと、彼は怯えた瞳で渾身の「ごめんね」をぶつけてくる。彼の母親がそうであったように、私が感情にまかせて言葉を撒き散らす時、彼は傷をえぐられたような苦悶を瞳のとても深い場所に宿して、「ごめんね」をぶつけてくる。

彼は決して暴力を振るわない。それは彼が優しいからだけではなく、暴力を振るうことそのものが、彼にとっての傷だからだ。彼はかつて、苦悩の果てに、大切な家族に暴力を振るった。その時、自分を見た母親の目の色を、彼はどうしても忘れることができないのだという。

「『ごめんね』をぶつけてくることだって、ある種の暴力装置じゃない? 」
そう問うことは、まだできていない。怖くてきけない。とてもじゃないけど、いや、とても、きけない。たぶん、「ごめんね」は、彼にとって精一杯の防御壁なのだ。それを責め奪うことは、私にはできない。

私たちは恋愛の末に夫婦になった。どんなカップルでもそうだろうが、それなりのドラマがあり、神経をひどく消耗した気もする。それでも、結果的には夫婦となった。だが、夫婦というのは一つの形に過ぎなくて、私たちが偶然それを選んだ、それだけのことだ。

二人を繋いでいるのは、たぶん「絆」ではなく、「傷」だ。一緒にいることが傷の舐め合いにならないように、でもたまに気が向いたら舐め合えるように、心身を許していられる唯一無二の存在が、彼だ。

私の傷はどこまでも私のもので、だから彼は決して「愛」や「絆」を易々と口にしない。それらが麻酔のようにいっときの痛みを消し去り、幻想として酔わせる重さを彼はよく心得ている。

彼が時折見せる憂いた笑顔は、私の傷をひどく刺激する。彼を守れるのはたぶん私だけだし、そうであってほしいと願うのは身勝手だろうか。それでも、許されなくてもいい。許される必然性を感じない。彼は私の、私は彼の、傷を舐める。絆という言葉に支配されないよう、痛みから決して逃れられないよう。

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